土曜日の韓国語授業の帰り道、いつものように韓国語教室の先生と一緒に梅田方面に帰っていると先生が言った。
「私ね、クラスの中でひろみさんをみていて思うのだけど、ひろみさんて日本人じゃないのよ」
全く驚かない意見だった。今まで何度となく言われてきた言葉だ。
「ああ、わかります。今までずっとずっと前から同じこと言われてきました。ズレているというか、浮いているというか、なんだか違うんでしょう?」
「なんていうかね、オーラが違うというか、たぶん他の日本人の方はひろみさんが違うから話しかけづらいと思うの」
「それも、よく日本人の人から言われます。なんだか話しかけづらいって。それに加えて私が人見知りで自分から話しかけられないから、なかなか友達ができない。一度相手から話しかけてもらって話をしてみたら”あら、なーんだ話せる人じゃない”ってわかってもらえるんですが、それまでが時間がかかるんです」
「ひろみさんが人と違う、人と違うオーラを持っているというのは良いことでもあるけど、人が近づきにくいから寂しいことでもあるよね」
海外で生活をしたことがあるからとか、海外の友人が多いからそう言われるようになったというのとは違う。この、"人と色が違う"というのは、海外に行くずっとずっと前から言われていたことで、会社の中でも「あなたはここの色に染まらないわね」と先輩から言われ、好意的な意見では「天真爛漫・純粋」少し悪意(?)のある意見では「天然・不思議ちゃん」と言われてきた。
ここ数ヶ月の間でも数人の外国の人たちから
「君が日本人だってことすっかりわすれていたっていうか、君が日本人だってこと思ったことなかった」
「あなたは周りの人と違っている」といった意見を立て続けに聞いているので、ただただ「ああ、やはりそうなのか」と思うしかなかった。
そんな自分に対する評価を聞きながら思うのは、客観的な意見から自分像というのはぼんやりわかるのだけれど、
では、そんな「人と違っている自分」を心地良く思っているのかというと、実はそうではない。
ただ「私でいるだけ」。それはそうなのだけれど、どうやら「私らしい私」というのが社会の中ではうまく溶け込んでいないのではないか?という葛藤が解消されないままこんな歳になってしまい、どうやらこのままこのなんとなく感じる違和感を抱えたまま老いて死んでいくんだろうなという感覚。どちらかというと「人と違う自分」を「特別でユニークな私」ととらえているより「どうやらズレている私」という感覚でとらえている。
海外での生活なんか私の人生で3%にも満たないわけで、結局のところ私のルーツは日本だし、日本人としての教育・思想が私の中に染み込んでいる。私の中の道徳的観念とか思想が日本であることは自分の中でとても嬉しいことで、それを主軸として大きなことを判断できることに信頼を置いている。でも、「私」というもう一つの大きなエレメントがどうしたわけかどこの国に行っても、どの国の人に対しても「なんだか違う人」になっているのが不思議だ。
この間一番笑ったのは、私の顔を見て「君は本当に100%日本人?お父さんかお母さんのどちらかに外国の方の血が入っているってことはない?」と言われたことだ。
こんな平たい顔の私に西洋の方の血が入っていると考えた人がいて、その話は私と姉の間に笑いを届けた。